言えなかったありがとう。

皆さんこんばんは
3年ぶりに参加する岡山マラソンに向けて気持ちだけ焦っている社長の藤野です。
本日はランプロさん主催の30Km練習会に参加してきましたが、
思った以上に気力・体力ともに低下していてショックでした。


仕事も運動も日々の積み重ねが全てですね、もうあまり時間はありませんが、
楽しく本番を迎えられるようにしっかり準備していこうと思います。

そんな今日は父の17回目の命日。


日曜日の夕方、現場で作業している私の携帯に大学病院から電話があったこと、
岡山に帰るお金がなくて会社に頼み込んで給料を前借りして実家に戻ったこと、
翌日の明け方に冷たくなった父親が実家に帰ってきたことなどなど、
当日のことは今でも鮮明に覚えています。

経緯については一年前のブログにも詳しく書いていますので
お時間あるときにご覧いただけると嬉しいです。

2021年10月5日ブログはこちら→『創業の精神:次世代への恩送り』

父は自分のことをあまり話さない人だったので、詳しい話は全て母から聞きましたが、
18歳で社会人になって公害病の喘息と闘いながら、ただただ家族の幸せだけを願って、
57歳の生涯を全うしたのだそうです。

弊社の創業の精神は『次世代への恩送り』。
建築という仕事の素晴らしさを一人でも多くの若者に伝えて次世代へつなげていく事と、
両親や親世代の方が大切に守ってきてくれた故郷を大切に守り次世代へバトンを渡していく事ですが、
全ては17年前の今日から始まったのです。

最後に昨年1月に日創研主催の第8回『心に残るありがとう!』体験談で
優秀賞を頂いたありがとう作文を掲載させて頂きます。

まだまだ道半ばではありますが、両親への感謝の気持ちを忘れず、
これからも精進して参りますので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い致します。


『言えなかったありがとう。』 (株)アース・ゲイン 藤野 彰弘

私は岡山県倉敷市玉島という町で育ちました。両親共に仲良く、兄と弟と共に幸せに育ちました。
喘息で体が弱かった父は入退院を繰り返しながら仕事に行き、
母はそんな父の面倒を見ながら我々三人の息子を育ててくれました。
両親共に苦労人でしたが「苦しい時こそ笑っとけ」 という信条の元、いつも家庭は明るくにぎやかでした。
地元の高校を卒業後、一浪して大阪の大学に進学し、そのまま店舗建築の会社に就職しました。

「大きな仕事がしたい!」
そんな願い通りに設計から施工監理までトータルで任され、あこがれだった海外での仕事も経験させてもらいました。
一方で大企業が故の非情な体質も目の当たりにしました。社長交代による方針転換により大リストラが強行され、
活躍されていた先輩や直接仕事を教えてくれていた上司が次々と解雇され、失望と共に私も会社を退職することに決めました。
5年間培ってきた経験とノウハウがあれば何でもできるという根拠のない自信だけで独立したものの、
運転免許しか持たない生意気な二七歳の若造に仕事が入ってくるはずもなく、営業資金という名目の借金だけが膨らむ一方で、
私の周りからは誰もいなくなってしまいました。

借金返済のため、 車の部品工場や魚市場、 引っ越しのアルバイトなど、朝から晩まで働きましたが、
お米も買えない生活は続き、ついに給料日の二週間前で財布の中身が27円という事態になってしまいました。
会社を辞める事に反対だった両親には借金の事も内緒にしていたため悩みましたが、
母親にお金を貸して欲しいと電話をしました。 するとその日の午後、父が一人で私の住む広島まで来てくれて、
近くのファミレスで昼食をご馳走してくれました。

悔しくて情けなくて顔を上げる事ができない私の前で、他愛のない話をする父は、何があったのかは何も聞かず、
ただ最後に黙って茶封筒を手渡してくれました。父の車が見えなくなった後、封筒を開くと、
そこには10万円が入っていました。

そんな父が持病の喘息の発作で突然亡くなったのは私が31歳の時、ちょうど借金完済の半年前でした。
借金を返し終わったら全てを話す、そして直接ありがとうを伝えると心に決めていたのですが、間に合いませんでした。

生前、父は「アイツなら大丈夫」と心配する母を何度もなだめてくれたそうです。
父親の分も母親に孝行をする。それが焼かれていく父と交わした私の約束です。

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